食を通じて体と心は別物ということを認識した話

こんにちは、おつまみです。

みなさんは、昆虫食に興味はおありですか?

こう言うと日本に住むほとんどの方が眉をひそめるでしょうね。

かくいう私もその1人でして。

とはいえ私は幼少期にイナゴの佃煮なるものを食べていました。

おばあちゃんが作ってくれていたものです。

普通にバリバリ喰っていましたねw

イナゴ=食べ物として認識していたので、心理的な抵抗は全くなかったんですよね。

しかし、同じ昆虫であるナメクジを食えと言われたら私は断固拒否します。

なぜなら、ナメクジ=食べ物として認識してないからです。

ナメクジ=生き物であり食べ物ではない、というのが私の認識ということです。

しかしナメクジは栄養豊富らしく、体が喜ぶ食べ物という話を、アウトドア系の雑誌で目にしました。

つまり、体が喜ぶと心が喜ぶは、必ずしも一致しない、ということです。

そんなの当たり前と思うかも知れません。

しかしこれは私の認知が身体とズレているという話であり、非常に良くない、と私は危惧しています。

つまり食べ物=生き物という覆せない事実を受け入れられないという心が私の中にある。

わかりやすい例えをすると、みなさんは牛肉を喜んで食べますよね?(牛が嫌いなら、豚でも鳥でも構いません)

なぜ、牛肉を抵抗なく食べられるのか?

それは、牛のパーツである牛肉が生き物の一部であるという「事実認識」が薄いからだと思います。

もちろん、「理屈」として牛肉=牛の一部=生き物であると分かっている人が大半でしょう。

しかし、それよりも牛肉=牛の一部=食べ物という認識のほうがよほど強い。

試しに、想像してみてください。

1/100くらいになった牛の丸焼きをあなたの目の前のテーブルに置かれている状況を。

牛はどんな表情をしているでしょうか?

無念極まりない、といったしかめっ面をしているかもしれません。

安らかな顔をしているかもしれません。

どちらにせよ、牛のステーキをテーブルに出されたときに比べて、食べるときの心理的な抵抗が強いのは否めないのではないでしょうか?

中には食べることすら拒否する人も出てくることでしょうね。

それはおそらく

「怖いから。気持ち悪いから。可愛そうだから。」

という心の訴えです。

これは我々人間が生き物を食べないと生きられない「体」を持っていることの事実認識の確立を、都市化された環境(教育)によって阻害されてしまったからではないでしょうか?

死は怖い、汚いものだから深く考えないようにしよう。

生き物を殺して、心理的にも物理的にも食べやすいように加工する仕事は一部の人達にやってもらおう。生き物っぽさを排除した精肉を「おいしい食べ物」として認識し、そして不都合な事実は認識しないようにしよう。自分の手は汚れていないということにしてしまおう。

そのような社会的な暗黙知があるように感じます。

事実認識を正しくしないといけないと思った私は、1年ほど前(2019年)から狩猟をはじめました。

自分が食べるものは自分で手を下さないといけないと思ったから。

しかし、そう決心したものの、いまだに動物の命を奪うという行為には心理的な抵抗が強く働きます。

でも、命を食べると体は元気になります。

生きる続けることができるんですよね。

心と身体は密接に関わっているとはいうものの、高度に管理された「清潔な」人間社会の下で育つと、心と身体には大きな隔たりができてしまう。

そんなことをふと思い、筆をとった次第でした。

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